新渡戸稲造とは 新渡戸稲造年表 Inazo Nitobe History
- 1862文久2年
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9月1日に新渡戸十次郎の三男として盛岡で誕生。
元気一杯のワンパク小僧
姉5人、兄2人の末っ子として生まれた稲造。 毎日野山を駆け回ったり、悪戯をしては大人を困らせたりと、後年の紳士然とした姿とはかけ離れたワンパクな子どもでした。
- 1871明治4年
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9歳の時に親元を離れ東京へ。
東京で文明開花を感じる
叔父の助けを借りるため、兄とともに上京した稲造は、英語を中心に勉学に勤しんだと言います。恵まれた恩師に囲まれながら成長を遂げていきました。
- 1878明治10年
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札幌農学校に入学、キリスト教に入信。
「active(活発)」から「monk(修道僧)」へ
入学した頃は非常に活発な成年だった稲造は、仲間たちからactive(活発)と呼ばれていました。ところがキリスト教を学ぶ中で、自分自身を見つめることが多くなり、次第に寡黙で内省的になっていきました。そんな稲造を見て仲間たちは「monk(修道僧)」になったと驚いたそうです。
- 1883明治16年
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東京大学選科生として入学、英文学、統計学を学ぶ。
「太平洋の架け橋になりたい!」
入学時の面接で、英文学を学びたいと言った稲造に対し、面接官は「どうして?」と聞き返します。その時言ったのが、有名な「太平洋の架け橋になりたい」という一言。英語力を深めることで、海外の文化や思想を日本へ紹介し、また日本の素晴らしい文化や思想を海外に紹介したい、と自らの志を熱く語ったのです。その後、東京大学の教育に満足しなかった稲造は大学を自ら退学します。
- 1884明治17年
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アメリカへ留学。 ジョンズ・ホプキンス大学入学。
運命の人との出会い
ある日、ティー・パーティーに出席した稲造は、日本について興味を持っているという一人の女性を紹介されます。その人こそ、稲造の生涯の伴侶となる、メアリーでした。当時より女性の地位向上のためにさまざまな活動をしていたメアリーと、日本の女子教育の向上を目指す稲造は、次第に惹かれるようになり、その後1891年に結婚します。
- 1887明治20年
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ドイツに留学。農政学、農業経済学、統計学などを研究。
- 1900明治33年
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英文『武士道』を刊行。
ポジティブ思考が『武士道』を生み出した
ドイツ留学から帰国後の稲造は多忙を極め、その結果、重い神経症を患ってしまいました。一度は絶望しかけた稲造でしたが、「静養の期間こそ、これまでの考えをまとめるまたとない機会だ」と発想を転換。こうして静養先のカリフォルニアで書き上げたのが、『武士道』です。世界で読まれるベストセラーは、苦しい時も前向きに物事を捉える、ポジティブな発想が生み出したとも言えます。
- 1903明治36年
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京都帝国大学の教授に就任。
- 1906明治39年
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法学博士となる。第一高等学校の校長に就任。
学ぶべきは「コモンセンス(常識)」
日本でも最難関と言われた第一高等学校の校長に就任。ここで稲造は、専門的知識ばかりを身に付けるのではなく、善悪を判断できる常識(コモンセンス)を身に付けるよう、指導したと言います。その後は東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長を歴任し、次代を担う若者たちの育成に力を注ぎます。
- 1913大正2年
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東京帝国大学教授に就任。
- 1918大正7年
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東京女子大学初代学長に就任。
- 1920大正9年
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国際連盟事務局次長に就任。
国際平和のため、世界的に活躍
第一次世界大戦終結後、平和な国際社会を築くために誕生した国際連盟。稲造は事務局次長として北欧のオーランド紛争の解決、ユネスコの前身である「国際知的協力委員会」の創設など、精力的に仕事に励みます。また仲間内の人気投票でもトップになるなど、誠実でユーモアセンスにあふれた稲造は、ここでも人々の中心にいました。
- 1926大正15年
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貴族院議員に勅撰される。
- 1927昭和3年
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本学の前身「女子経済専門学校」の初代校長となる。
森本厚吉とともに、新渡戸文化学園の礎を築く
札幌農学校時代の教え子である森本厚吉は、当時日本の女子教育のために新たな学校を創設し、発展させようと考えていました。本学園の前身である女子経済専門学校への昇格の際に校長として招き入れたのが、稲造でした。当時の教職員に示した「人の子を預る以上は親心を以てこれに対すること」から始まる教職員心得は、今も新渡戸文化学園の柱として息づいています。
- 1933昭和8年
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10月16日(日本時間)カナダのビクトリア市で没す。享年71歳。勲一等瑞宝章を受ける。
- 1984昭和59年
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五千円札の肖像画に採用。